TITLE:突然ですが〜2003年01月30日 木曜日 22:37:56
ベートーヴェンの耳って聞こえていたのかもって?今日から、ちと探ってみたいです。「第九」ベートーヴェンの交響曲9番がウイーンで初演されたのは1824年、風香る5月のこと。年末ではない。交響曲第7、第8番以来12年ぶりになるべートーヴェンの新作交響曲初演は大成功をおさめ、聴衆は熱狂的な喝采を贈った。耳の聞こえないベートーヴェンには、それが分からず、アルト歌手が彼を振り向かせてそのことを知らせてというエピソードも残っている。
この有名なエピソードにもあるように晩年のヴェートーヴェンが聴力を殆ど失っていたというのは定説だが「ベートーヴェンの耳は聞こえていた」という大胆な説を唱える読み物がある。

タイトルもずばり。。。。
「本当は聞こえていたベートーヴェンの耳」

さて、この続きは又明日ね。。。
お休みなさい。

TITLE:今日はお仕事オフでした。2003年01月31日 金曜日 16:41:22

うっかり、仕事あると思って忙しいと思っていたら・・・
お休みでした。。。で、お休みと思っているとあったりします。;

ま、さておき〜
「本当は聞こえていたベートーヴェンの耳」筆者は自らもかつて聴覚障害に苦しんだという経験の持ち主でフリーライターの江崎久さん

正確には「ピアノの音は聞こえていた」と言ったほうが正しいらしく、人の声を聞くことが出来なかったベートーヴェンは、ピアノの音のように強い振動の音は聞こえていたというのだ。人間の聴覚器官のうち、中耳に疾患がある場合にはこのような症例があり得るのだそうだ。このことは、20世紀前半までは、医学会も分からなかったそうでベートーヴェンの難聴も現代なら手術や補聴器でほぼ、解消されて、不自由なく生活できただろうという。実際、著者自身も手術の結果、聴力を回復しているそうです。 

TITLE:ハイリゲンシュタットの遺書。2003年02月02日 日曜日 17:44:24

1802年10月6日と10日、ベートーヴェンは遺書を書いています。これを書いたウィーン郊外の地名にちなんで、「ハイリゲンシュタットの遺書」と呼ばれている名文です。
 この6年にわたり、耳の故障で絶望的な状況下にあることを説明し、
「誰かが私のそばに立っていて、その人は遠くからの笛の音を聞いているのに、私にはなんにも聞こえないとき、あるいは誰かに羊飼いの歌っているのが聞こえるのに、私にはやっぱりなにも聞こえないときは、これはなんという屈辱であろう。そういうことが何回かあって、私はほとんど自暴自棄となり、すんでのところで自ら生命を絶つところであった」
 と述べています。弟達に宛てたものですが、末弟ヨハンの名だけが空白になっています。
 死後になって発見されるや、センセーションを巻き起こし、ベートーヴェンは1802年には自殺も計るほど悲惨な状況だったと、今に伝えているのです。
 しかし、遺書であるとするとおかしい点が出て来ます。まず当時は正式の遺書には立会人を必要とするのに、それを置いていないこと。自殺なので立会人を避けたとすれば説明はつきますが、この遺書は「自殺をしそうになった」ことを書いているのであり、自殺を思い止まってから書いたものになるでしょう。また、先に述べた通り、弟のうちヨハンだけを書かずにいる点はどうにも説明できません。本当の遺書なら、弟の一人だけを無視する意味がないのです。
 この年の10月、交響曲第2番ニ長調 Op.36を完成しています。解説によれば、「そのような時期に作曲されたとは思えない、憧れと喜びに満ちた明るい曲」だそうです。辛いからこそそんな明るい曲を作るのだというのは詭弁のように思われます。
 この年の他の作品を見ると、3月に完成したピアノソナタ「月光」 Op.27-2があります。この曲はジュリエッタ・グィチアルディという伯爵令嬢に献呈されていますが、前年の11月、ベートーヴェンは友人宛の手紙で、彼女と結婚したいという告白をしています。
 他にもあの美しい「ロマンス」(第1番ト長調 Op.40と、第2番ニ長調 Op.50)、3つのヴァイオリン・ソナタ Op.30、バカテル Op.33、「エロイカ変奏曲」 Op.35……まだまだあります。これが自殺を考えた時の仕事なのでしょうか。
これは、遺書についての説明からの抜粋です。

TITLE:続きですξ 2003年02月03日 月曜日 12:59:33

弟子だったリースがこう書いている。
「ベートーヴェンは三曲のソナタ( Op.31)を、チューリッヒのネーゲリー社と契約していたが、悲しいことにいつも彼の世話を焼いてきた弟のカルルは、これをライプツィッヒのある出版社に売ろうと企てた。ベートーヴェンは前に結んだ契約を守ろうとして、兄弟間にはしばしば口論が起こった。ソナタが発送されるとき、ベートーヴェンはハイリゲンシュタットにいた。散歩の途中で兄弟間にまた口論がはじまり、おしまいには腕力沙汰にまで発展した。その翌日彼はそのソナタをチューリッヒに送るようにと私に渡した」
 これで怒った弟はウィーンに帰ったのである。
 最初に引用した部分からも、難聴とはいっても遠くの音が聞こえないという程度らしく、それ程深刻なものとは思えない。事実、「運命」の初演の際、彼は自らの独奏でピアノ協奏曲を演奏してるが、この遺書から6年も後のこと。指揮を見ながら合わせればいいと考えるのは無理で、やはり耳の聞こえない人間にはできない芸当でしょう。
 更に1824年の第9「合唱」でも指揮をしています。この時、聴衆の拍手に気付かず、ソプラノ歌手が教えてやったという逸話が残っている。いかに作曲者であっても、全く耳の聞こえない者に指揮が出来るだろうかという疑念もある。彼の時代の指揮者はただリズムを振っていれば事足りたようで、曲が完全に頭に入っていれば、耳の聞こえない指揮者が第9の指揮をしたということも不可能ではないのである。
 晩年ハイリゲンシュタットの頃、ベートーヴェンに難聴の問題はなかったと思われるのである。要するに、彼は弟との喧嘩別れを悲しんでこの遺書を書いただけであろう。気性の激しいベートーヴェンだからこそ、興奮して喧嘩になり、その興奮から醒めたとたんに、弟と別れた悲しみがこみ上げ、その絶頂で書かれたものが、「ハイリゲンシュタットの遺書」なのではなかろうか?
↓の説明文同様抜粋です。

TITLE:気になって。2003年02月06日 木曜日 13:54:06

ベートーベンをここまで、書いたらやっぱり、運命を書かなければね?

我々が『運命』と呼んでいるこの曲は構成からも分かるように、正しくは「運命の克服」であり、フィナーレの「運命に打ち勝った勝利の響き」こそ曲の中心と考えるべきでしょう。『運命』という題名と第1楽章のイメージから、ベートーヴェンといえば暗い、強烈な作曲家というイメージがありますが、彼の曲のほとんどは、「暗い運命を打ち破った勝利と喜び」に満ちた曲なのです。なお、この『運命』という題名は作曲者本人も知らないもので、シントラーの伝記に、「ある日作曲者は第1楽章の冒頭を示しながら、運命はこう扉を叩くという言葉でこの曲の根底にある理念を語った」という部分を引用しているのです。これは日本でしか通用しない題名です。フィナーレの雄大な第1主題を聞いたナポレオンに仕えていた兵士が「皇帝だ、ナポレオン万歳」と叫んだという逸話があり、ベートーヴェンが生きていたころは「皇帝交響曲」と呼ばれていたそうです。(説明文抜粋)

マタネ♪
TITLE:こんな記事もありました。2003年02月07日 金曜日 14:10:06

ベートーヴェンは一つの主題を転用したり、他の作曲者のメロディを引用することが多いのですが、この4つの音による動機もピアノ・ソナタ『熱情』に使われていることはよく知られています。交響曲第3番『英雄』の有名な葬送行進曲でも、伴奏にこの4つの音が鳴り続けています。彼だけでなく、モーツァルトの交響曲や他の作曲家にもこの「タタタターン」はよく顔を出しているのです。それでも、1995年6月9日、ベルギーの新聞「スタンダール」で報じられたニュースは大変ショッキングでした。ベートーヴェンの祖父(1712〜73)の書いた楽譜が教会のオルガンの下からいくつか発見された中に、「ハープシコード舞踏曲ニ短調」の冒頭があり(問い合わせたところ、残念ながらこの2小節だけの発見だそうですが)、ここでニ短調8分の6拍子で『運命』の4つの主題が、同じ音程で繰り返されているのです。だが、これは新聞で騒がれたような「盗作」ではありません。我々は主題に驚くのではなく、この主題を見事に扱ったベートーヴェンの手腕に驚かねばならないのです。また、祖父の作品はメヌエットを思わせるようなリズムです。我々の知っている『運命』では、冒頭の半拍の休み「ンタタタターン」の「ン」が、何とも言えない緊張感を生み出しているのです。見つかった祖父のメロディとは全く異質のものなのです。

ですって〜信じられないですね。天才、尊敬のみ

ではまた☆